【3】
武器庫の一件は、あたしの勘違いでも、思い込みでもなかった。
そう確信できたのは割と早かった。
その後の任務を終え、ぽっかり3日間ほどの休暇を得られて、《ミネルバ》は近場の惑星ニンフに降りた。手つかずの自然を保護する、50余りの島々で構成されていて、人の原点回帰にうってつけと賞されている美星。
ここで珍しくジョウから外出を誘われた。
すごく嬉しかったのに、もやもやが残るあたしは、受け答えがいつもより固かったと思う。この数日間、まともに彼の顔が見られない。
ホテルのインフォメーション・ボードでは、周辺地域にある様々なアクティビティが案内されている。トロピカル・ジャングルの川下り、銀河系で貴重なシダが群生する渓谷トレッキング、
ウェディングケーキのような滝登りなど、宇宙生活者にはたまらない誘惑ばかり。
迷っている横で、Tシャツに七分袖のシャツパーカー、
そしてシルエットがきれいなチノを履いたジョウが
「とりあえずエアカーをレンタルするさ。行き先は、走りながら決めたらいい」
と提案してくれた。
思わずアクセルを踏み込みたくなる、スタイリッシュな流線型のスポーティタイプを借りてきていた。ホワイトメタルのボディが見事で、小傷をつけたらどれだけ罰金を取られるんだろう。
車内はゆとりの2シート。ソフトレザー仕立てで、座り心地はリビングのソファに近い。スモーキーグレイを基調にしていて、ほろ苦い赤を思わせるカンパリカラーが、トリミングだったり、ツートンに施されたりと洒落ている。
あたしは、エアカーと自分たちの格好を交互に見比べて、もう少しドレスアップした方が似合ったかもと過ぎった。とはいえ
「こいつしか残ってなかった。ガキ共が寄って来そうだな」
と笑うジョウを見ていると、くだらない心配に思えて消した。
腕に自信がないと臆してしまうエアカー。その助手席に身を沈めると、ジョウはすぐさまエンジンを起こし、リアを一瞬振ってから駆り出した。
きゃっ、とシートの中でバランスを立て直す。あたしは、たちどころに別の緊張に絡め取られる。それは彼の操縦に対してではない。
スカートがミニすぎた……。
ローウエストでパープルカラーのジャンスカは、胸元が大きくVネックのデザイン。モノクロのボーダーをインに着れば、フレンチカジュアルにまとまって、妙に気負った甘いコーデにならない。
ただ鏡の前で、二連のロングのネックレスをつけたのがいけなかった。目線が上にとらわれて、丈のチェックをうっかり忘れた。
ロングブーツだけど、シートに座ったら膝上20センチがむき出しになる。
仕事ではジョウと至近距離でいられるけど、休暇中の今、
密室に閉じ込められると意識してしまう。
……あの武器庫での一件が頭を過ぎる。
あれがキスだったかどうかと考えている頭で、脚をこんなに露出していることがたまらなく恥ずかしい。
パンツスタイルにすればよかった、と後悔。
突然外出を誘われ、軽いパニックを起こしたまま服を選んだのもいけなかった。
ハーブティーを一杯煎れるくらいの余裕がないと、TPOにあった自分を演出できないなんて。
どれだけ意識過剰なんだろうと、あたしはだんだんと居心地が悪くなった。
その左隣で
「このまま市街地を流すか?」
とジョウが訊いてくる。
「え?」
「特にないんだろ、行きたいとこ」
「そ、そんなことないわよ」
「出かけるのに、テンションが低い」
「違うの。ありすぎて選べないだけ」
「じゃあ手始めは買い物か?」
「ま、間に合ってる、それは。ほら、クローゼット今いっぱいだし」
聞き入れて、からりとジョウは笑った。
「そいつは賢明だ」
「でしょ?」
あたしも笑って同調してみせた。
普段と変わりない空気を取り繕いながら、さりげなく両手を膝上に置いて、本心もろとも
隠そうとしていた。
落ち着いて、落ち着いてと、心の中で念じる。それが強すぎたのか、単なる偶然なのか。
赤のシグナルでエアカーが一時停止すると、ジョウはふうっと一息ついてから声を漏らした。
「……実は緊張してる、俺も」
声色が変わる。
さっきより生々しくあたしの耳朶をくすぐった。
「あれ以来だもんな、二人きりってのは」
どくん、と鼓動がひときわ大きく響いた。
お互いだけが知る秘密のキーワードがかちりとはまり、心の扉が開いた感覚が溢れ出す。
え……、とあたしが左の席に視線を移した途端、ジョウの目線とかち合う。
久しぶりに直視できた。
漆黒の瞳。彼の瞳は狡い、それとも小癪と言うべきか。
黒々とした双眸は、若造呼ばわりできない威圧感がある。ただジョウの場合、陽の加減ではアンバーな色合いを浮かばせる。
そのソフトな階調は、屈強な意志の底に潜ませた、彼のナイーヴな面を滲ませる。二面性を含ませたジョウの瞳。向けられると釘付けになって、動けなくなる。悔しいくらいに。
けどあたしは、この瞳が好き。
久しぶりにジョウの顔に見惚れてしまう。そして彼もあたしの眼差しから逃げていない。正確に表現すれば、堪えている風に見えた。
仕事とは違う、甘い緊張感が彼を包んでいるのが分かった。何か言いたげな表情。形のいい唇は半開きで、吐き出される次の言葉をあたしは待った。
「アルフィン」
呼ばれると同時に、ジョウの右手が伸びてきた。肩を抱かれる。抱かれて、強く引き寄せられた。
あたしの視界いっぱいに、ジョウの瞳しか入りきれなくなったところで、たまらず瞼を閉じた。右肩に彼の指が食い込む。
「……ん」
人肌になじむ暖かな弾力が、あたしの唇をぴたりと塞いだ。鼻腔から抜ける吐息が弾き返されて、ジョウの肌の匂いを含んだ空気が肺の隅々まで満たす。
武器庫の時のような、曖昧さやためらい、誤魔化しが全くない。まっすぐに唇を求めてくれた。これは勘違いでも、夢でも、嘘でもない。
あたしたち、口づけしてる。
そして武器庫の出来事は、ファーストキスだったんだと確認できた。
頭の中を、胸の奥を、ざわつかせていたもやもやが音をたてて溶けていく。体温を移すように押しつけてくるだけの、初々しい口づけだけど、十分酔わされてしまう。
銀河系では、ならず者の代名詞のように語られている彼が、こんなにも優しく甘やかなキスをこなせる男だなんて。そしてあたしを捉えている指先が、僅かだけど震えているのに気づかされた。
不器用な面をさらけ出してくれてる、心を開いてくれている、あたしには。照れくささの壁を乗り越えて、想いを吐露してくれてる。
嬉しかった。
そして、幸せで窒息しそう。
昂ぶってきたジョウは、一層あたしを懐に抱え込もうとする。逃がさない、離さない。全身でそう伝えようとしてくれるのが分かる。
気づけばあたしの右手は、彼の胸に置かれていた。心臓の真上。ここに気性の荒い生き物でも飼っているのかと思うくらい、シャツ越しでも分かる逞しい胸板が激しく拍動する。
ジョウがあたし以上にどきどきしてる。
痛いくらいに想いが伝わると、目頭の奥がつんと辛くなった。
ごめんね、という気持ちがせり上がってくる。
唇を通して互いの体温を確かめ合う。二人だけの世界に閉じこもる。
ところがそれを破壊する輩がいた。エアカーの後方から、無遠慮に渦巻くクラクションの嵐。
はっとしたジョウは、
「やばい」
と、あたしを助手席にそっと追いやり、急ぎギアをDに入れた。
滑らかに加速する。そして流石スポーツカーだけあって、あっという間に時速500キロを超えた。
シートに全身を預け、両手で顔の半分を覆ったまま、そっと運転席を盗み見る。平静を装う彼の横顔だけど、宇宙灼けした肌色は上気し、首の周りがほの紅い。
あまりにも夢見心地すぎて、ふわふわして、現実味がない。横目ですぐ隣の彼を目視して、ああやっぱり夢じゃないんだ、と納得できると、涙腺がまたきゅんと沁みる。
色恋沙汰に対して、ジョウがどれだけ不器用か知っている。なのに、彼を疑った。
文句も無数に浮かんだ。
武器庫でのキス疑惑を、あの後どうやっても記憶から抹消できなかった。そして、もしも故意だったら?という想像の連鎖を断ち切れないでいた。
好きだという告白も、交際という申し出も、すっ飛ばしていきなり行為に及ぶなんてデリカシーがない。男の都合で、女を扱わないで欲しい。単に勢いじゃないかしら。どうしてあの場で、あのタイミングなのか、気持ちが全然分からない。
振り返れば、なんて身勝手なことばかり考えたんだろうと反省する。
さっきのジョウの口づけは、好きという言葉も、交際という理も、超越するほど熱っぽかった。そんな口先小手先にこだわって、彼が一歩踏み出してくれた勇気を分かってやれなかった。
手のひらが跳ね返されるほど、心臓を狂わせていたジョウが愛おしくて、申し訳なくなる。
ごめんね、ごめん、ごめんなさい……。
肯定的に受け止めなかったことが、苦しさに姿を変え、あたしを責める。
ピザンの生活を捨ててもいいと無鉄砲に飛び出してきた頃から、こんな日が来ることを大事に、大事に、願ってきたのに。
なんで一時でも、腐った気持ちに偏ってしまったんだろう。ジョウはこんなにもまっすぐ、気持ちをぶつけてくれたのに。
幸せと後悔がぐちゃぐちゃと綯い交ぜになると、感情のコントロールにも不具合が出てくる。
そしてジョウへの慕情はついに熱い涙となって、あたしの器からいとも容易く溢れた。
顔の半分を覆った、指先が濡れる。いけない、止めなきゃ。そう追い詰められると余計に、頬や指先、顎までも大粒の涙で洗われていく。
涙腺……、壊れたかもしれない。
こんな状況を悟られたくないから、懸命に唇を噛む。ジョウと反対のウインドウに顔を向け、ドライブを満喫する素振りを取り繕った。
すると飛ぶように流れていた景色が、だんだんと建物や道路設備の形を成していく。追い越しから走行車線へ移動し、アミューズメントビルや風光明媚な名所でもない、駐車ラインだけが敷かれたパーキングエリアに進入した。
カフェやショップがあるサービスエリアなら休憩だと分かる。けど、ホテルから出て30〜40分しか経過していない。
普通ならここで、どうしたの?とジョウに訊くのに。助手席のウインドウに映るあたしの顔は、涙のせいで目鼻立ちが腫れぼったい。気づかれたくなくて、振り向かなかった。
エアカーが白線内にきちんと収まると、ジョウが軽やかにギアとパーキングブレーキを操作するのを音で知る。
一瞬の間が空いてから……あたしの後頭部を、そっと撫でるように彼の手が届いた。
「ーーー悪かった」
張りのない声だった。普段がらっぱちな声質の彼だけど、時折こんな風に、
切ないウィスパーボイスを放つ。
「泣くほど嫌なら、最初から我慢するな」
その言葉に、思わず身をひるがえす。ただ運悪く、長い金髪がジョウの手をぱんと払い除ける挙措となった。
「あ……」
そんなつもりじゃない。だから、あたしの顔は強ばった。
「すまない。もうしない、二度と」
金髪にはね除けられた右手を、のっそり退いた。操縦レバーに上体を傾けて、あたしとの距離を遠ざける。ジョウはフロントウインドウを凝視しながら
「俺は、俺の立場を弁える。誓う。だから安心していい」
と、一息に言い切った。
ジョウは、拒絶、と解釈したみたいだった。
あのタイミングで涙したことを、あたしは心底後悔する。
もうすれ違いたくない。
ジョウの気持ちに,真正面から応じたい。
追いかけたい一心で、声がフライングした。まだ顔向けできない、何をどう語ればいいか考えも整理もついてないけど、声だけが咄嗟に先行した。
「安心なんて、できない」
シートのアームレストを掴むと、本革特有の軋み音が鳴る。信号待ちで交わした甘い想い、その続きを、ちゃんと自分の手でたぐり寄せて紡ぎたい。
「できる訳ないじゃない。誤解されたままで」
あたしはまた、アームレストを握り直す。どこかに捕まっていないと、不安で、声が震えて、ちゃんと届かない気がしたから。
「嫌だなんて言ってないもん! ひとっ言も」
ジョウの右頬が、打たれたようにぴくりと反応した。そろりと肩越しに双眸を向ける。
「……アルフィン?」
「あたし!」
ぎっ、とシートのスプリングが鳴く。みっともない顔も、むき出しの膝頭も、ぜんぶ彼にさらした。アームレストだけが、あたしとジョウの境界線となる。
「嬉しかった……」
どうしてもっとふさわしい言語がないんだろう、と嫌になる。こんなありきたりで、使い古されたボキャブラリーでしか、大きすぎる想いを伝えられない。
あんまりもどかしくて、お腹のあたりがぐらぐらと煮えてきた。
「泣いたのはジョウのせいじゃない。そもそも、なんで今あのタイミングで
涙なんか出たんだろ、あたし」
どんどん、支離滅裂になる。だけどちゃんと伝えないと、と余計に焦る。思考と感情が噛み合わないまま空回りするのだけは分かった。
自分の舵取りができない。
「この間のこと、あたしが一人勝手に悪い方に考えて沈んだり、でもひょっとしたらって期待したり。……ああ、違う、違うの。言わなきゃいけないのは、こんなことじゃなくって」
かあ、と全身が熱くなった。
恥ずかしい、穴があったら入りたい。誰か助けて、この暴走を止めて欲しい。言葉の乱射は、彼の心を射止めるどころか、周辺をやたらめったら撃ち抜いてきっとバラバラにしてしまう。
「分かってるの、今。こうして喋るほど、興醒めさせてるって。可笑しいでしょ? 滑稽よね?」
混乱を超えて、半狂乱みたいになる自分が、痛々しくて、辛い。こちらをじっと見ている彼の姿が、ぐにゃりと歪んだ。何一つ想いを正確に伝えられなくて、情けなくて、泣けてきた。
すると、彼が動いた。アンバーな色味をうっすら覗かせて、あたしの碧眼をしっかり捕まえて、両手で顔を包み込んでくれた。
「落ち着け、アルフィン」
過呼吸なのか、しゃくり上げなのか。もう自分がどうなってるかすら見失っている。短い呼吸音が車内をこだまし、両手でアームレストを掴んだまま震えを抑えられなかった。
そしてジョウは、アームレストを越えて抱き留めてくれた。彼の首筋に鼻先を埋めて、背中までぐるりと両腕で封じられる。
あたしより高い体温に密閉されて、もう身動きがとれない。
「変じゃないさ。色んなことが一気に押し寄せりゃ、誰だってパニくる」
彼は右の頬を、あたしのこめかみの辺りに擦り寄せながらそう答えた。なだめてくれている。その抱擁にあたしはとっぷりと甘えた。
固い筋肉に包まれた彼だけど、毛布のような、ほっとするぬくもりを持っていてくれてることが今、この上なく嬉しい。
あたしを変な風に操っていた糸は、からまりをほどかれ、あるいは切られて、ゆっくりと自由が手の内に戻ってくるのが分かった。
「つまり、だ。俺はこうしていいんだよな」
節くれた彼の指が、金糸を梳くように頭の後ろを滑らせている。気持ちいい。すべてを預けてしまいたくなる。
「……うん」
返事を聞き入れたジョウは、抱く腕に力をいっそう込める。肺を圧迫されても、少し息苦しくても、ちっとも辛くない。
「じゃあ、訂正する」
耳元で、息がかかるくらいに寄せたところで、ジョウは言葉を遺す。
「二度も、三度も、何度でも触れていたい。覚悟決めろよアルフィン」
そしてそのまま、耳たぶに口づけを添えた。
彼の唇の音が、鼓膜に貼り付いてくらくらする。
だけどそれを悟られないよう、あたしは強がった。
完全に落ち着いて、彼の腕の中で再生できたおかげで、負けん気の虫がつい疼く。
「ーーー望むところよ」