【4】
22世紀の同世代からすると、相当まどろっこしいことをしてると思う。
惑星ローデス出身の元浮浪児・リッキーなんかは、生き抜くための術として早熟な面がある。生まれ落ちてすぐ立ち上がれないと、死のリスクが上がる野生動物の世界にも似て、老成しない子供は自らを救えない。
幼さを色濃く残したあのスパーク団でさえ、男女の営みうんぬんを知っていて、試すこともあったとは、後々聞かされたあたしは相づちを失った。
だからジョウとあたしの営みなんて、まだまだ青くて固いのは重々承知。それでもあの一件以来、関係が飛躍的にこなれたと思う。
一番の変化は、ジョウからのスキンシップが増えたこと。
といっても、タロスやリッキーを前にあけっぴろげな訳じゃない。そこら辺は以前と変わらない。
例えばリビングで作戦会議を開くと、円形ソファでさりげなく隣に腰かけてくる。足を組んだ時、つま先があたしに触れていたり、太腿と太腿がぴたりと寄り添っても避けたりしない。
ちょっと高い物を取ろうとしていると、真後ろに立って腰に腕を回し、背中に胸板を密着させて、棚の上の物をひょいと掴んでくれる。
すれ違いざまや彼から立ち去るとき、ぱんとお尻や肩を叩かれたり、金髪の毛の束をひとすくいしてキスされたり。
つぶさに存在を確かめてくれて、愛されてる、と実感する。
そしてキッチン、武器庫、格納庫は、つかの間の恋人に戻れる隠れ家となった。たまたま鉢合わせすると、ほぼ100パーセント口づけか抱擁を交わしている。
けれどロックは掛けない。可能な場所であっても。
家族同然のクルーとして、4人の生活はバランスがとれていた。誰もが行き交う共有スペースで、怪しげなロックを掛け、うまくいってる生活に悶々とした染みを落としたくない。
「俺たちがちゃんと、周りの気配に敏感ならいい」
とジョウも言う。
おかげでディープにならない。というか、なれない。
それでもあたしは十分、幸福に浸れるからいい。
「ずっとこうしたかった」
そう溜息混じりに告げられ、彼に抱きすくめられるだけで嬉しい。作業をしながら、ふと目が合って、ついばむようなキスを受け止める。それだけでも舞い上がって仕方がない。
一方ジョウは時折、すんなり収拾がつかないというか、後味悪いことがある。最近は、ブリッジでの出来事。
その日、アラミスから発信された次の任務と、クライアントについてのデータ分析をこなしていた。ジョウは副操縦席でメインスクリーンを見上げながら、作戦に使うデータを振り分け、シークレット事項はチームリーダーの頭に叩き込まれたのち消去…その一連の操作をあたしが手伝う。
「あら? このテキスト何かしら」
スクリーンの右下に、随分とさっぱりしたアイコンがある。カーソルを乗せてクリックする……が、開かない。
「右肩に記号があるな。ああ、出力限定か」
「出してみる?」
「頼んだ」
なんだか秘密裏な匂いがする。今どき一発操作で閲覧できないなんて、訳ありっぽい。推理する間に、コンソールに配されたスリットからキャビネサイズのプリントが吐き出された。
手にした途端、あたしの柳眉が跳ねる。立体スクリーンのボックスシートからすっくと立ち上がり、固い足音を響かせて移動すると、ジョウの眼前にぺらりとぶら下げた。
「ーーーうん?」
近すぎて見えない。当然、彼は上体をわずかにのけぞらした。
「どなた?」
自分でも驚くほど、ひんやりとした声だった。
ジョウはまずあたしを見て、なんだ?、という苦い表情をつくってからプリントに瞳を移した。そして開口一番
「初めてみる」
と突き放す。左手をひらりと翻した。
「嘘」
「じゃあ誰だよ」
「あたしが訊いてるの」
「どこかの女優」
そう、クールビューティーなルックスで、亜麻色の毛先に緩いウェーブがかった美人。年は多分あたしと変わらない。色素が薄くて、肌のキメもハリもプリンターが綺麗に再現している。
「クラッシュジャケット着てるでしょ?」
ジョウは二度見して、
「ああ、言われてみれば」
と声のトーンを変えなかった。
「あなたは、どこまですっとぼけるつもりなの」
彼との関係が密になったことで、ヤキモチ虫が心穏やかになるかといえば、逆だった。むしろ、恋人、という立場で強化されたように思う。
「あのなあ……知らんものは知ら、、、、」
のっそり立ち上がり、反論……されるかと思いきや、ジョウ、態度を一変。あたしの手からぱっとプリントを引き抜き、左右に目線を走らせた。
「クラッシャーファッジか」
今度はするっと名前を吐いた。
あによ、知ってるじゃない、と噛みつこうとすると、今度はぺらりとプリントを鼻先につきつけられた。
ジョウの指先が一番下、隅っこを指す。《Grade-skipping》の印字。
「飛び級?」
「そうだ。前に話しただろ? ショートステイ研修の特待生だ」
「ーーーあっ!」
両手で頭を抱えて、口をあんぐり開ける。そうだった。本部から受け入れの打診があったのを思い出す。
女性クラッシャーを乗せている船はまだ少ない。特Aクラスのチームリーダーがいて、素人でも叩き上げるだけの根性とキャリアがあり、なおかつ、シビアな現場を体験できる船といったら《ミネルバ》がまず挙がる。
「さあて。受け入れを許可したのは、どちらさんだっけ?」
「はい……、あたしです」
肩をすくめて、しゅんとなった。
この話が舞い込んだとき、ジョウは断ることを即断即決した。
あたし一人で持て余してる部分があり、あたしとの面倒なトラブルを避ける意味もあり、どのみち元々男所帯の《ミネルバ》に、女が二人もいたらろくな仕事もできない、と判断したのだった。
それをあたしが混ぜっ返した。トラブルメーカーみたいな言われようも癪だし、受け入れ候補者は13・4才くらいと聞いていたから、あたしの方が大人だ。同じ女はよくても、同じ次元で扱われるのはどうかと思った。
こちらにもプライドがある。
「クラッシャー稼業の女性進出に、ぜひ協力させていただきますわ」
と啖呵を切ったことも、あぶり出しのようにじわじわと思い出す。
「よもや忘れたとは」
「はい……、言わせません」
ばつが悪い。あたしはそろりそろりと足音を立てず、ボックスシートに戻ろうと後退した。
だけど、ジョウは許してくれない。副操縦席のシートから、ずいと一歩踏み出してきた。
そろり、そろり、そろり。
ずい、ずい、ずい。
無言の間が居たたまれない。距離が縮まる。言い訳がましいと分かりつつも、会話でワンクッション置くしかなかった。
「本部も意地が悪いわ。堂々とブロマイド貼っつければいいのに」
「俺が知るかよ」
「それに、この任務と特待生は別じゃない。一緒にデータが来るなんて、ねえ?」
あはは、と苦笑いを付け足してみた。
「大方、三人の候補者の振り分けとタイミングが重なっただけだろ」
「ああ〜、なるほど。ついでという訳」
大仰に納得してみせる。いちいち芝居がかってると自覚しつつ、風当たりというか空気のまずさ諸々を何とかしたかった。
「本採用前だとオープンできない情報もあるしね」
「そんな分析はいい」
「え……」
「いきなりカッカするって、どういうことだ」
「ジョウ?」
「俺たちもう、前とは違うだろ」
がったん。
あたしはついに追い詰められた。背中に、ブリッジと船内通路を繋ぐドアが当たる。もう行き止まりと分かった。
無意識に近づいたせいで、スキャニングセンサーが反応せずドアがスライドしない。《ミネルバ》はクルー全員の通過パターンを記憶していて、スクランブルで飛び出す時は刀のようにスパッと開くし、出入りに連動しない動きには無反応。
20世紀頃、ドアに近づくだけでやたらめったら開閉した自動ドアに、苛々した開発者がいたのかもしれない。おかげで生活ストレスはなく、便利さだけが未来に活かされた。
ただ、こういうピンチには役立たず、なことに気づく。改善の余地、未だあり。
「ーーー他が目に入る隙が、あるように見えるってか」
真正面から、ジョウの食い入るような圧迫感。
「あ」
ジョウはまっすぐこちらに向かって、逃げ場のないのをいいことに圧してきた。身体ごと。
青いクラッシュジャケットが、プレス機と化する。彼の胃のあたりで、あたしの両胸がぐにゃりと潰れた。
「ど、どいて」
「だめだ」
「く……苦しいのよ」
「俺だって苦しいさ」
ジョウの胸ぐらから息継ぎするみたいに、顎を上げ、彼を仰ぎ見る。お互いが苦しい。けど意味も部位も、おそらく違う。
ジョウは大きく腕を広げて、扉に手をついていた。なんだか彼の檻に閉じ込められたみたい。
開いたジャケットの襟元から、この人の匂いが立ちこめる。カカオやナッツをローストしたような、甘さと渋みが混じり合うこっくりとした香気。コーヒーをよく飲むことと関係するのか、分からないけど。
匂いの中で呼吸しながら、クラッシュジャケットの特殊繊維が通す、微かな、それでいて力強い音に引き寄せられる。
どくどくという流れでなく、ど、ど、ど、と跳ね返してくる逞しい音。それはあたしのと同じく、早鐘のようだった。
「俺の何も、伝わっちゃいない。そう思い知らされる」
「そんなこと……」
ない。絶対ない。
押し込められた狭い空間で、必死にかぶりを振った。
「俺はアルフィンとやっと通じ合えた。最高にいい時期だと思ってる。だから揺るがない。たなびく暇が……あるもんか」
埋もれたあたしを見下ろす顔が、力なく笑った。つきん、とあたしの胸に刺さる。
「不十分な男だと自覚してる。きみが欲しい言葉の100分の1も言えてない。満足に相手できてるかも分からない。けど、いらん不安を与えない自信はある。……いや、、、」
一気に捲し立てたかと思ったら、いきなりぶっつりと切る。様子が心配で、彼の表情をじっと見つめた。
「あった、というべきかな」
「ジョウ……」
「たかが部外者に、何も知らない女……いや、あれは子供だ。そいつに呆気なくかき回されると、自信がぐらつく」
漆黒の瞳が沈んでいく。底のない沼地、その奥へ奥へ、すべてを拒絶あるいは排除するがごとく、光のない深い漆黒へと墜ちていくようで。
あたしは哀しくなった。二人が、一人と一人に引き裂かれる感覚がした。
「ごめん……。ごめんね」
涙声みたいに、語尾が震えた。
「ジョウのこと、信用してるわ」
「……」
「大切にされてるって思う。ジョウが軽々しく浮気するとは思ってない。けど心配しちゃう。あなた、周りからどう見られてるか気づいてないんだもん」
「どう…って」
質問を浴びせて彼は逡巡する。そして少しばかり後退した。
圧迫から解放されて、はあと大きな息をやっとつける。けど途端に心細くもなった。ジョウとはいつも、いつまでも、触れあっていたい。
だから腕が伸びて、ごく自然な流れで彼の両肩に手を掛けられた。
「同世代だけじゃないのよ、ジョウのこと素敵って感じるのは」
「俺が?」
鼻で嗤った。それもたっぷり自嘲を込めて。
びっくりするくらい、自分には無頓着で鈍感。だからジョウはあらゆる角度から、視線光線を向けられてるとは露とも思ってない様子。
「この間のクライアント夫婦、奥様はあなたを目の保養にしてた」
「マーガレット夫人が? 70過ぎだぜ」
「関係ないわよ、年なんて」
めっ、とお仕置きを込めて、視線で叱る。おばちゃんだから、のニュアンスは許さない。あたしだって何十年か後にはそうなる。
「何もないと信じてても、ハラハラしちゃうの」
「そんなもんか?」
「そんなものよ」
じゃあ、とあたしは背伸びする。爪先立ちで、顔をより近づけて彼の瞳、その奥を覗き込むようにする。
「逆の立場だったら?」
「アルフィンが、男に」
「そう」
「……犯罪だ」
ぶすり、と即答する。
あたしはヤキモチが下手だから、どうしても反動がジョウに向いてしまう。彼なら、視線の元をぎゅっとねじ伏せて、あたしに危害を及ぼすことはない。
だからかもしれない、ヤキモチの受け取り方が違うのは。
あたしは、ジョウに妬いてもらうと嬉しい。あたしのことでムキになったり、逆上されると、慌てはするけど有頂天になる。
「分かったよ、アルフィンの言い分は」
「カッカしちゃったのは、許して」
「……ああ」
「よかった」
「なんか、巧く丸め込まれた気分だ」
かたっぽの口角をひょいと上げる。
それを見て、あたしはジョウの両肩をぐいと引き寄せた。
「じゃあ仲直りのしるし」
初めて、あたしから触れた。唇で唇をタッチする。
「ーーー!」
ジョウが、リッキーみたいにどんぐり眼になる。コンマ5、6秒後、顔面が熟れたトマトのように真っ赤になった。
「お、おい」
かわいい。狼狽えてる。
そんな胸のうずきを感じながら、あたしは、さっきジョウが吐き出した言葉が気になっていた。
不十分な男。そんな風に自分を責めてたなんて。心を軋ませていたなんて。脆い面を不意に見せられ、あたしは参ってしまう。
母性本能をくすぐられた。
いじらしい彼に、どれほど熔かされたか教えてあげたい。彼の肩に手を掛けたまんま、あたしは上目遣いで見返す。
「きみが、こんなことするなんて」
「意外?」
「変わったなあ」
「そーお?」
「変わったさ」
「変わりません、あたしは」
「頑固さは変わらんが」
「そこだけじゃないわよ。教えてあげましょうか」
「へえ」
「じゃあ、当てて」
「当てる?」
ジョウの肩をするりと通り抜け、首根っこを捕まえる。ぐいと力ずくで、また彼の唇を塞いだ。
けど今度はタッチじゃない。触れたまま、唇でメッセージを形どってあげる。あ・な・た・が・す・き……と。
伝え終えて、一旦、床に踵をつけた。けど鼻先が触れるくらいの、近距離しか離れてあげない。ジョウの方が少し前屈みになる。
「…………」
「わかった? 読唇術で読んでよ」
「どくしん、じゅつ……って」
ジョウはもう、しどろもどろ。両手をドアに付けたまま、硬直している。さっきまで頑丈そうだった彼の檻は、もうぐねぐねに緩んでいて、一押しで倒せそう。
「もう一回ね」
戸惑っていても、あたしが顔を寄せると彼は結局のところ瞼を閉じる。その仕草は、歓迎しているサイン。嬉しくて、浮かれてしまう。
もっとサービスしたくなる。
あ・な・た・が・す・き、す・き、す・き、だ・い・す・き……。
ややあって、は……、と熱い塊が吐き出された。
あたしじゃなく、ジョウの吐息。
唇をそっと離して彼を見上げた。漆黒の瞳がやけに濡れて、うっとりするほど綺麗。気持ちを鷲づかみにされて、あたしは瞬きも忘れた。
だけど表情は辛そうだった。
鼻の付け根にぎゅっと皺を寄せて、ひどく、苦しそう。
あたしの告白が重たすぎた?、と過ぎる。それならちょっと、ううん、かなり哀しい、と思っていたらジョウが迫ってきた。
彼の額と、あたしのおでこが、くっつく。皮膚がしっとりと貼りつくのを感じた。ジョウは少し汗ばんでいるみたい。そして、
「………ひでえ」
地を這いつくばるような、恨めしい声を漏らした。
ひどい?そんなに?あたしはショックで、目の前がぐらんと回る。泣いてしまいそう。
そう思った矢先、ジョウが続きを吐き捨てた。
「馬鹿。暴走したらどうす、、、」
喉をすり潰すような声。ジョウのじゃないみたい。
びっくりしたあたしの涙は、そのまま引っ込んだ。
そして彼は、首の後ろで組まれたあたしの両手を外す。かちん、とホックを扱う要領に似ていた。
額も遠ざけてから一度、軽く咳払いして
「まったく。アルフィンの無邪気さは、たちが悪い」
と、脱力した声で呟いた。
「そんな言い方ある? もう…っ、悪かったわね」
語気は強くできたものの、心はかなり折れかけた。また、じわっと哀しい気分が湧いてくる。
するとジョウは、掴んだままのあたしの両手を回す。後ろ手にされて、がっちり固められた。そして身体をすり寄せてくる。
さっきのプレスと扱いが違う。なんだかねちっこい。
「ストレートに告ったら俺がどうなるか。考えもしない」
「……嫌、だった?」
「嫌なもんか。ただ、猛烈に困る」
「困るなんて、ひっどおい」
「俺も負けず嫌いだから」
つい、と顎を上向きにされた。短い会話のうちに、彼は右手だけであたしを後ろ手に縛り付け、左手に自由を取り戻した。そして、さらに。
「……あ、っ」
両膝に、片足を差し込んできた。銀色のスラックスとスラックスが擦れ合う。ジョウの太腿があたしのデルタゾーンすれすれにある。
「こっちも困らせたくなる。悪戯したくなる」
「そんなあ」
「焚きつけたのはアルフィンだぜ」
「……だって」
「どうしてくれるんだ。仕事も半端で」
「そ、そうよ。仕事に戻りましょうよ」
「できるか、今。責任取ってくれ」
顎にかけられた左手、その親指にぐっと力が加わる。
刺激的な予感が、あたしを甘苦しくさせる。さっきみたいに、子供だましなキスじゃ済まないかも知れない。
「俺をそそのかしたツケは高いぜ」
「ああん、助けて」
まるで後ろで手錠をかけられたみたいに、あたしは手足が出せない。もがき、あがいて、しなをつくる。それがまた油を注ぐみたいで、ジョウの目が完全にイッてしまった。
「頂きだ」
「ーーー!!」
影が覆い被さる。唇が滅茶苦茶にされちゃう?そして更に……、と身構えた瞬間、真後ろでぷしゅっと圧縮空気がはぜる音がした。
「うあ……っ!」
「きゃん!」
「ひえええええ!」
どさどさどさ、とひっくり返った。
なにせ、いきなりブリッジのドアが開いた。
なんの身構えもできず、あたしは腰をしこたま打った。ジョウの片手があったせいで、ぐりごりと変な打ち方をした。
「いってえ」
「あたたたっ」
「な、なにやってんだよう、兄貴たち」
仰臥したあたし。重なるように突っ伏したジョウ。見上げると、トレイを手にしたリッキーが立っていた。
「あっぶねえなあ、コーヒーこぼしちまうとこだった」
差し入れ、だと分かった。
「あ、ありがと。あんたにしちゃ、気……気が利くわね」
笑ってみたけど、かなり強張るのが自分でも分かった。
「兄貴、寝心地いいのは分かるんだけどさ、アルフィンしんどいんじゃあ…」
「……わあってるよっ」
すごい。鼻息荒く、がらがらとした嗄れ声。
かったるそうにジョウは、腕立ての要領で上体を起こそうと、のろのろ両腕を床に突き立てた。すると
「ーーーっつ!」
え?、とあたしとリッキーの目線が、反射的にかちあった。
バランスを崩したジョウは、ごろりと反転。右手首を押さえている。
ごくりと生唾を呑んで、ぽつり。
「……嘘だろ」
「ま、まさか、捻ったとか?」
いくつもの戦火をくぐってきたジョウが、こんなヤワな出来事で負傷。あたしは、がばっと跳ね起きて彼の前に正座した。
「ど、ど、ど、どうしよう」
両の拳を口元に当てて、狼狽える。12時間後には護衛の任務。その資料データのまとめだって、まだ終わってない。
「なんだよ、なっさけねえなあ。メディカルチェックだろ? ドンゴ呼ぼうか」
「……いい、自分で行く」
腹筋だけで上体を起こすと、重量級ロボットみたいにのっそりと立ち上がった。がっくりと肩を落とし、急に老け込んだように見える。
リッキーが下から覗き込む。
事情はさておき、声をかけずにはいられないほど、痛々しかったからだ。
「まじ大丈夫かい? 兄貴」
「……生殺しにされて、泣きそうだ」
「へ?」
どんぐり眼をぱちくりとさせた横から、ジョウは重い足取りでメディカルルームへと向かった。
ある意味タイミングが良すぎるリッキー。それに当たり散らす気力は、絞りきっても一滴も出ない後ろ姿だった。
気の毒な気分であたしは立ち上がる。するとリッキーが
「泣きそうだってさ。生殺し……ん? 半殺しだっけ?」
と首をひねる。
「何だかよく分かんないけど、慰めてやったら? アルフィン」
「簡単に言うわねえ」
じと、と睨みつける。
するとリッキーは、何やら違和感をぴんと感じたのか、好奇心を露わにした。
「あっやしいなあ」
「ふん。想像はご勝手に」
さて仕事仕事、とわざとらしく呟きながら、あたしはトレイのカップをひとつ取り、きびすを返す。ジョウが戻ってくるまでにやれる作業はある。今できる慰めはこれしかない。
「あれ? ねえアルフィン、これどうすんだい?」
リッキーが後ろで大声をあげている。
「落ちてたぜ、女の子のプリント! ひょっとしてコレが兄貴との原因ーーー」
これをブリッジのドアがシャットアウトした。
あたしは立体スクリーンのボックスシートに戻って、早速コンソールのボタンを操作する。メインスクリーンにデータを表示してから、両手でカップをすすった。
「次の休暇、かなあ……」
一人ごちて、一人で照れた。頬が熱い。
ディープになりにくい環境で、ディープに墜ちそうになった。ジョウがエスカレートしている。次、まとまった休暇で《ミネルバ》を降りたら、あたし達はその時を迎えるかもしれない。
「どうしよう……」
心臓がどきどきと震えはじめた。