(6)
腰が抜けた。
へなへなと、赤いクラッシュジャケット姿が崩れ落ちる。
「お、おい」
怒髪天、撤回。
ジョウは慌てて両腕を伸ばした。アルフィンの細い上腕を掴み、膝のクッションを使って、二人とも柔らかく床に降りた。
アルフィンは通路に尻をべったりつき、両足を揃えて横に流す。ジョウは傍らに片膝を着いた。
はあああああ。大きな深呼吸が辺りに轟く。
「どうした急に」
ジョウは口調を和らげ、覗き込むように問いかけた。
はあああああ。またも深呼吸。どっと疲労感を背負い、アルフィンはすぐに反応できない。
「貧血か? メディカルルームに連れてくぞ」
ううん。
これは即座に応えた。金髪が左右に大きく揺れる。
「あたし、てっきり…」
「うん?」
「トレードを宣告されるのかと」
「トレード?」
はて、とジョウは一瞬あてもなく見上げる。
数秒後、ああ、と合点がいった。
「ハスラムの件か」
「そうよ」
「何も話しちゃいないだろ? どうしてアルフィンが」
「聞いたの」
ちっ、とジョウの舌打ち。
「タロスか。驚いたな、こう口が軽いとは」
「ううん、違う。リッキーよ」
「リッキー? なんであいつが」
「あのね──」
アルフィンは掻い摘みつつ、ことの流れをざっと話した。
極度の動揺の余波から内容は前後した。
ここでは本来不要なタロスの老婆心エピソードもまぜこぜ。筋道があちこち飛ぶため、ジョウは何度か聞き返したりもした。
それでも5分後にはアルフィンも落ち着きを取り戻す。ジョウの脳裏には一件のレジュメが出来上がった。
なるほどな、という面構え。
「勘ぐるのは勝手だが、迷惑な話だ」
悪意はないと分かっている。が、いらぬ展開ともなれば少々ぼやきたくなる。
「トレード話は、出たその場で蹴ってる」
「…うん」
「あっちの条件と折り合い云々じゃないんだ。俺のチームはやるべきことがある。シャッフルする時期じゃない」
アルフィンは黙って聞く。
その言い方は、いずれ〈ミネルバ〉の顔ぶれは替わる…の予言と受け止めればいいのか。すっきり晴れない。
「確かにあいつ、タロスには悪いと思う」
ジョウは続けた。
クラッシャーとして熟し切り、今日明日にでもチーム立ち上げが可能な当時のタロスに、ダンは補佐役を依頼した。考えさせてくだせえ、と保留にした1時間後、タロスは引き受けてくれた。
そして現在に至る。
「〈ミネルバ〉のイニシャルも塗装も替えて、引き渡してやるかな」
冗談めかしに口走る。これに対し
「ジョウの看板を下ろすことに、一番反対すると思うけど」
アルフィンがしごく真面目な眼差しで応えた。
看板の掛け替えは、タロスの9年間をも棒に振る。だからありえない。
「まあどのみち、タロスがリーダーに昇格するには状況が悪い」
「状況?」
「親父やエギルとか、アクの強い老兵たちがぴんぴんしてやがる。連中がぽっくり逝かない限り、タロスらしく動くのは厳しい」
「どうしてそう思うの?」
「あいつは、アラミスの顔色を伺うタチだからさ」
評議会が謳う仕事のルールに則る。クラッシャーとして当然の振る舞いだが、皮肉ってみせた。
ジョウとてルールは無視できない。外れれば罰則の対象だ。
しかしながら、かなり都合のいい解釈をして、違反すれすれを狙い定めて抜けていく。屁理屈も理屈のうちにしてしまう。
アラミスサイドは、有能すぎて扱いにくいリーダーの一人として認知している。これはダンの息子、の肩書きを抜きにしてだ。
揃いの制服を着、流星マークを背負った船を駆る。だが仕事は、クラッシャージョウを名指しで舞い込んでくる。それもひっきりなしに。
天狗になっている訳じゃない。全責任を負うのだから自由にやらせてくれ、と本部に叩き返すくらいの威勢や気概と言えた。
でないと飼い慣らされた犬と変わらない。ジョウはそう考えるタイプのリーダーに成長した。
タロスはダンに頭が上がらない。〈アトラス〉時代の上下関係が染みついている。他の同世代クラッシャーと比べて、良くも悪くもダンの影響が色濃い。
「パイロットとして生涯現役の方が、断然楽しいと思うぜ」
「でもそれはタロスが決めることでしょ?」
「まあ、そうだが」
「勝手に決めちゃ駄目。命令権を持ってる人は、特に」
神妙な顔つきでそっと口にする。アルフィンの様子を汲んだジョウは、この話題は半端なままで切り上げた。
「それで本題なんだが」
え? と碧眼が上向く。
「ホワイトデーだ。何が欲しい?」
あは、と少し明るい声が漏れた。
「アクセサリーや服とか化粧品は、好みがよく分からない。花とか食いもんも考えたが、これと思うのが浮かばなくてさ」
よいせ、とさりげなくジョウも床に腰を下ろす。片膝を山型に立てた。
二人揃って通路に座り込むのはどうかと思うが、わざわざ場所を移し、膝をつき合わせて懇々と話し合う内容でもない。
ジョウは通路の壁に背を預け、リビングで寛いでるのと変わらないムードを漂わせた。
「休暇が合えばどこか連れていく案もあったが、生憎そうもいかない」
「…うれしい」
「え? まだ何も──」
「うれしいの。あたしのために考えてくれた時間が」
立てた片膝に、アルフィンの左手が乗せられる。ぴくんと一瞬反応したジョウだが、それ以外は平静さをキープ。
「一ヶ月、悩んでくれたんでしょ?」
「う…、そう…かな」
「ありがと。あたし、満足よ」
再びジョウに向けられた碧眼が、濡れたように煌めく。泣きたいほど感極まれり。
だがきわどい一線で踏み留まる。涙をこぼしたらジョウが慌てる。それを知るアルフィンは懸命に呑み込んだ。
「割が合わなくないか?」
「ううん。バレンタインにあたしはしたいことをして、ホワイトデーには沢山の時間を費やしてもらった」
「俺にだって…その」
「──え?」
「何かしたい気持ちはある。そいつは無視か?」
言うやいなや横を向く。
言葉にすると照れくささが勝ってしまうジョウだ。
「そんなつもりは…」
カタチより、そのキモチが嬉しい。アルフィンは心底思う。しかし今ここでねだらないと、金輪際切り出してくれなさそうな気配が漂った。
なにせジョウはこの手のやり取りが苦手ときている。
今も相当無理している。こそばゆくて、出来ることならさっさと手を退きたい。が、アルフィンのために向き合う。その努力が伺えた。
アルフィンはすっと腰を浮かせて座位を替えた。正座で、両手はきちんと膝の上。
「じゃあリクエスト」
ジョウが、お、と顔を向ける。
「何なりと」
「では遠慮なく」
「?」
意味が分からずジョウは黙りこくる。先にアルフィンが動いた。
「──!!」
「…5分、…3分でもいいから。こうさせて」
アルフィンは、ジョウの首に巻きついた。
右の頬を、彼の右頬に密着させて。やや高めの体温を柔肌が吸い取っていく。
通路の壁にジョウを押しつけての抱擁。クラッシュジャケットのスタンドカラーが些か邪魔だが、体温も匂いも抱き心地も確かだ。
夢じゃない。
「ア…、アルフィン」
もぞり、とジョウが身じろぎする。封じるため、細い両腕にそれぞれ手を掛けた。
「だめ。動いちゃ」
「これが…望み、か?」
「しー…」
「……」
「黙って。独り占めする時間、壊さないで」
ああ…、と。返事なのか、嘆息なのか、どちらとも受け取れる応答がジョウから漏れた。
仕事中にジョウに守られる。流れで抱きつく。それはある。
けれど純粋に抱擁のためだけに身体を寄せ合ったことは、あっただろうか。記憶が乏しい。
だから今の幸せを噛みしめる。
「…アルフィン」
「んもう、黙ってよ…」
「これでいいのか」
「──え?」
「これだけで、いいのか?」
さっきとは違う。ワントーン低い声。耳を疑い、アルフィンが身を引き起こしかけた瞬間
「あ…っ」
男の力で抱き返された。
「……、ん」
ジョウの首元から外され、両腕を胸に抱いた恰好でアルフィンは丸め込まれた。青いクラッシュジャケットの懐に。
広い胸板、リーチの長い両腕、捕らわれたら最後どう抗っても逃れられない。金髪の頭上にジョウの頬があてがわれる。
苦しい。
心音が地鳴りのように荒々しい。アルフィン自身のか、ジョウの音かさえも判別つかない。苦しい。呼吸を忘れるほど幸せすぎて、目の前が眩む。
意識の半分が朦朧としてきた。
男の体温にのぼせそう。もしくはジョウに溶け込む…そんな夢うつつのところに声が降ってきた。
「──駄目だな、俺は」
ぱちくりと碧眼が瞬く。耳をそばだてた。
「こんなちっぽけなことしか、望んでもらえない」
え? 自嘲たっぷりの声に、思わず見上げた。
「途方もない我が儘、言わせたかった」
「……」
情けねえな、と溜息。そして金髪を後頭部から背中にかけて、優しい手つきで撫でた。
アルフィンは鼻の奥がきゅんと沁みた。馬鹿。ジョウの馬鹿。天にも昇る幸福感に浸りながら、悔しくもあった。
再び俯き、無理矢理両腕を伸ばす。またもジョウの腰に回した。ぎゅうっと、懲らしめもたっぷり込めて抱きついた。
「……、なんだ?」
異変を察し、彼からの抱擁が少し緩む。
「じゃあ難しいこと、お願いする」
伏せ気味のせいで、普段澄んでいる声がくぐもった。
「ジョウ」
「うん?」
「今後一切、あたしに命令しないで」
いきなり、とてつもない我が儘が飛び出した。