(8)
ホワイトデーのお返しは、くどいようだが男性から女性へ贈られるもの。アルフィンが
ジョウにねだったのは、キス、だった。
……キス?
たった二文字にジョウの脳内は翻弄される。
──キスだとお?!
動揺が高波のように押し寄せた。
これでは100%アルフィンへの贈り物どころか、半分…いやそれ以上、男の方が立場的に
おいしい。
「却下だ!」
「ええー! またあ?」
二言はないって…嘘つき。アルフィンがぶつぶつ文句を垂れるのを聞いてしまう。
ジョウは頭痛を抱えたような顔つきで、指先で目頭を押さえた。
そうだな、と一応非は認める。しかし言い分もたんまりある。
「カタチとして残るもんのリクエストが有り難い」
「あたしこう見えて、それほど物欲あるタイプじゃないのよ」
そうか? とジョウは一瞬過ぎったが、厳密に考えればそうかもしれない。何せ欲求の
ピークに達する前に満たせてしまう環境だ。王室時代も、クラッシャーに転身してからも。
「それだけじゃない。なんて言うか…その、教育を受けたと思うが、貞操観念とか…だなあ」
「もう王室の人間じゃないのに?」
「いや、そうであってもだな、女として…」
「そうなの。女子として大問題なの」
「──は?」
「あたし…もう17よ?」
アルフィンは両手を胸の前で組む。その動作で教会にいるような心境にさせられる。
「この先ガールズトークで『ファーストキスは何歳』なんて話題がのぼったら、あたし、
どうしたらいいの?」
「ど、どうしたらと言われても」
まずガールズトーク事態が成立しにくいだろう。体験談をおかずに語り合える関係を築くのは、さらに至難の業だ。アルフィンは今そういう境遇にいる。
しかしジョウはそれを言い出せなかった。
ごく普通のティーンエイジャーであれば当たり前のことが、アルフィンには叶わない。王女のままでも、クラッシャーになれても。
ジョウ自身は仕事にまみれる人生で全く構わない。それが性に合っている。だがアルフィンの無邪気で、愛くるしい様子を端で見ていると、世間一般的な青春のまぶしい光景が似合う。
だから現況を気の毒に感じる節がときどきある。
「今どきキスくらい子どもでもするわ。ハイティーンにもなって未経験なんて、化石よ。
いい笑いものだわ」
唇を尖らせて、拗ねた。
軽薄っぽい口調だが、アルフィンの内心はばくばくと跳ねている筈だ。ジョウはそう見越して
いる。
世間並みに擦れたり手垢がつかないことが、格好悪く感じる年頃。背伸びしつっぱることで
大人の階段を上っていくように、アルフィンもここぞと勇気を振り絞りいきがっていた。
その奮闘を目の当たりにしてジョウは思う。
アルフィンの要望をはぐらかし続けるのは、遠慮や優しさではなく、逃げているだけだと。女に煽られてばかりでは、男としてあまりにも腑抜け。
聞きようによっては、早く体験を済ませたいという蓮っ葉な印象を受けるものの、アルフィンを
よく知る者なら分かる。あれだけの魅力。街を歩くだけでキスのチャンスなど向こうからやって
来る。
それでも清くあり続けたのは、結局、身持ちはちゃんと堅いということ。
心に決めた異性にだけ、ねだる。受け入れる心を、開く。
「──分かったよ」
「え」
「もう四の五の言わなくていい」
唇を引き結ぶとジョウは、両手でアルフィンの上体を左右から押さえた。
「こ、ここで…?」
笑顔がひきつる。
自ら望んだ。ねだった。しかし、ことの急転についていけない。
「で、でも、通路はちょっと…」
「だったら船室にするか。俺の? アルフィンの?」
「そ、そ、それは…」
「ただ保証できないぜ。密室は」
「な…なに?」
「それだけで終われるか、自信がもてない」
ぴき。
アルフィンの全身が硬直した。
「どうする? 場所は任せるが」
「……、……、……」
アルフィンの唇は、ぱくぱくとただ動くばかり。そして胸の前で組んだ両手は、小刻みに震えていた。ジョウも黙ってそれを認める。
しかしこの震えは、怯えや拒絶でないのが幸い。普段は色白の肌が桃色に上気し、そのせいで表情は何十倍も艶やかさをまとう。
「リハーサルして決めるか?」
「り…、は…?」
と言いかけたところでジョウが動いた。
唇の左脇、やや顎に下りたポイントめがけてジョウは口づけた。その間際にアルフィンは両の瞼をぎゅっと閉じ、全身を固くする。
「ん…、……っ」
顎が自然と上向く。
そしてジョウは舌先をちろりと這わせてみせた。骨でぴんと張った皮膚は敏感で、たとえ一瞬でも濡れた感触にたちまち取り込まれる。
一撃で、動けなくなった。
「…どうする?」
鼻先が触れそうな至近距離で、ジョウが覗き込む。
アルフィンはまるで魂が半分抜け、惚けてしまう。かろうじて座位をキープしてるが、ジョウの支えを失ったら即、くたりと潰れそうな状態。
「このまま此処で?」
「……」
「それとも船室まで運んでやろうか?」
「……」
問いかけに対し、アルフィンができた応答。両の碧眼をそっと閉じた。『あなたの好きにして』
というボディランゲージ。
これを目の当たりにして、ジョウの顔つきはいよいよ険しくなる。
アルフィンに見つめられると牽制や監視から、自制できた。しかしこうやって身を捧げられると
感情が一気に盛り上がる。理性を越え、溢れてしまう。
「アルフィン…」
右手で小さな顎を捉えた。こうなればもどかしいニアピンなど真っ平ご免。
頭の中はすることしか考えていない。ただ隅っこの方で、ちっともお返しになっちゃいない
よなあ、と自嘲。
とはいえここまできたら、撤回などする気はさらさらないジョウである。
もうこのまま突き進む。居場所の移動すらもどかしい。
だが。
「どひゃああああ!!」
と甲高い絶叫。
同時に影がひっくり返った。でえん! と鈍い音が通路に轟く。
「いちちちちち」
絵に描いたような見事なずっこけだ。尻や背中だけでなく、後頭部まで派手に打った。
リッキーめ…。ジョウは呪わしげに、喉の奥で声を擦り合わせた。そして両手で掴んだ
赤いクラッシュジャケットの身体に、はっと意識が呼び戻される手応えがあった。
不用意に、いや、ごく普通にリビングを飛び出したリッキー。そこでとんだ場面に鉢合わせた。
相当前に出て行った二人が、ドアから数歩の通路にうずくまっているではないか。それもかなり密着度高く、いやらしげな空気を漂わせて。
びっくり仰天で大転倒、も無理はない。
「あ、兄貴たちぃ…」
ころんと反転。俯せの恰好で、高々と腰だけ突き上げ、利き手で痛い箇所を押さえる。こちらも忌々しそうな眼差しを突きつけた。
「こんなとこで何やってんだよう、ったくぅ…」
「…おまえには関係ない」
ふて腐れた声を、重々しく押し出すジョウである。
場が白けた。完全に甘い空気は消え去った。アルフィンの身体に触れている腕はもう引っ込めるしかない。
「ブリッジで小難しい話してたんじゃあ?」
「…しい」
「まさかずっとここで、いちゃこらしてたわけ?」
「…ましい」
両手を突いて、うう、とリッキーは何とか起き上がる。四つん這いのまま追及し続ける。
なにせずっと気を揉んでいた、アルフィンのトレード話について。結果が気になって仕方がない。
そしてこの場にそぐわぬ空気についても知りたい。リッキーは気配に敏感だ。アルフィンが大人しくて無抵抗、ともすれば骨抜き状態にも見える。
アルフィンの脱力は抵抗疲れなのか? いやそれはないだろう。あの兄貴がアルフィンをここまで追い詰めるほど冷酷にはなれない。
まさかジョウがトレードを飲んでくれ、と口説き落とした? 惚れられた強み、あるいは色仕掛けで。それによる放心状態なのか?
いやいやいや、それもない。あの兄貴に口説ける芸当があれば、〈ミネルバ〉はもっと女っ気があり、華やいでいるだろう。
妥当な線で言えば、アルフィンが女の武器である涙の抵抗を見せて、ジョウはイチコロ。そうだよな、悪かったと平謝り。そして泣き顔があんまりにもいじらしくて、男心に着火して場所も弁えず手を伸ばした…といった展開。
ああこれが一番しっくりくるなあ。
わずか数秒間で、これだけのことを連想してしまうリッキーだった。
「わ、悪気はなかったんだぜ? ほんとだよ」
「…かましい」
「お邪魔しました。どうぞ続きを…」
「やかましい!!」
立ち上がるやいなや、ずかずかと歩み寄ってリッキーの胸ぐらをがっつり掴む。
哀しいかな小柄な身体は、機嫌が悪いジョウの腕力だけでいとも簡単にリフトアップされた。
「ぐぐるじいぃぃぃ」
「ガキのくせに、いらん詮索しやがって」
「うひいぃぃぃ、ずびばぜーーーん!」
「顔貸せ! おまえはブルタスの件も含め、一度締めてやる!」
「ちゃあんと覚えてやんのーーー!」
「当たり前だ! 後回しにしてやったんだ、有り難く思えっ」
「お慈悲をーーー!」
ほとんど八つ当たりだが、リッキーは色々と巡り合わせが悪かった。ジョウに吊し上げされた惨めな恰好で、ブリッジへと連行された。
ジョウの欲求不満の憂さ晴らしとして、血の雨が降らなければいいが。〈ミネルバ〉の船内は、リッキーにとってあまりよろしくない雲行きとなった。
そして通路に、ぽつんと一人残されたアルフィン。
ぼうっと天井を見上げていた。左の口端からわずかにそれた部位を、指先でなぞりながら。
唇にまで届きそうで届かなかった、ジョウの感触を思い出す。初めてで、刺激的で、けれど結局もどかしさが増しただけ。
そしてひとつ、新たに芽生えた疑惑。
「ジョウは…ファーストキスじゃないわね、たぶん」
だってあの唇使いで、なんとなく分かるもん。
ジェラシーを滲ませながら、しかし多少なりとも進展した自分たちに、ぽっと頬を桃色に染めるのだった。
<Fin>