【11】
気が進まない。
エウーダがジョウの肉体を餌食にしようとも、殺すことは躊躇われた。
ならば逃げるしかない。
ジョウは傷ついたエウーダに向かって、気を引きつける。エウーダの子供の鳴き声に気づけば、逃げる獲物だと知れるだろう。ジルは、この場で一気に片づけられてしまう。
ジョウはわざとエウーダに接近した。長い両腕であれば、充分に捕獲できる距離にまで。エウーダは填った。ジョウの身体に掴みかかるよう腕を伸ばす。
が、ジョウは消えた。
エウーダの長い腕は、空振りし、自らの身体に巻き付いた。
ジョウはエウーダの両足の間からすり抜け、瞬時にジルを抱き上げた。
そのまま逃げる。
しかしエウーダの片腕がしなった。振り返りざまに。
「がっ!」
ジョウの背中を真一文字に、その鋭い爪がばっさり裂いた。
ジルを抱えながらジョウは横転する。
「くっ……」
傷が深い。
生暖かいものがどくどくと背中を湿らせていくのが分かる。
ジョウは歯を食いしばり、身を奮い立たせた。やられる訳にはいかない。満身の力で大地を蹴る。エウーダが追ってきた。ジルを抱いた状態ではもう応戦できない。
闇雲に走った。とにかく大木が密集している方角へ。
巨獣のエウーダは大木が邪魔をして突進しきれない。走った。拍動が激しくなり出血は続く。それでもジョウは足を止めなかった。
一体、何分間森を彷徨ったのか。
ぐらりとジョウの身体が倒れた。頭の芯が冷たい。貧血だ。ぬかるんだ大地に突っ伏した。
荒い息の中で、意識がふうっと遠のきそうになる。
──駄目だ!
ジョウは気力で引き戻した。背中の激痛がそれを助けた。皮膚につれる感じが広がり、血が固り傷口を塞ぎかけてると気づく。流血さえ止まれば、痛みなど慣れだ。
泥だらけになった上体を起こすと、腕の中のジルはまだベソをかいている。だがさっきまでのような泣き方とは違った。止みそうな気がした。
ジョウは肩で息をしながら天を仰ぐ。陽光が覆うような木々の葉に乱反射し、太陽の位置すら分からない。完全に方向感覚を失った。エウーダからジルを救出したものの、森に迷っては元も子もない。
気を張り巡らせた。エウーダの気配はない。振り切れたようだった。
しかしエウーダ以外にも獰猛な動物がいる可能性がある。ふらつく足元でジョウは立ち上がると、手頃な巨木を探した。
太い幹を何本も生やし、丁度腰を据えられそうな巨木があった。幹までの高さおよそ6メートル。自力で上れなくはない。ジルを抱えてどう昇るか。ジョウは少し考えていた。
「んま……」
ジルはすっかり泣きやんだ。両手足をばたつかせて、何かを訴えている。
「な、なんだよ」
ジョウは訳が分からず、とにかくジルを宥めようとした。
するとジルは、泥にまみれたジョウの人差し指にくいついた。
「いってえ!」
慌てて引き抜いた。
きれいに生えそろった歯形が、ジョウの指に残った。
「腹壊すだろ!」
そこではたと感じた。
ジョウ自身も喉の渇き、そして空腹を感じていることに。
「……そっか、腹が減ったのか」
「まんま……」
少しずつジルの訴えが読めてきた。とはいっても、こんな場所だ。子供の口に合うものがあるのか。ジョウは暴れるジルを抱いたまま、辺りを歩き出した。
すると運良く、赤い、ピンポン玉大の実が成っている蔓を見つけた。先にジョウが毒味する。固いが、さくさくした食感で甘い。悪くなさそうだ。
ジョウはそのひとつをジルに渡す。
小さな手からすれば、林檎大に見えた。しかしジルは口をつけはするものの、食べない。
「今はこれしかないんだ。贅沢言うな」
ジョウはジルの口に木の実を押し当てるが、一向に囓ろうとしない。様子を観察し、やがて理由が分かる。口が小さすぎるのだ。
「まだ、丸齧りできないのか」
ジョウはジルを地面に降ろすと、しゃがみ込み、目の前で木の実を割ってやった。半分なら随分と囓りやすくなる。しかしこれもジルは受け付けない。噛む仕草は見せても、そこで終わりである。
ベソをかきだした。
目の前に食べ物があるのに、食べられないもどかしさだろう。
ジョウは、母親に世話をされた記憶がない。どうやって子供に食事を与えるのかさっぱり分からない。だが、無理にでも食べさせなければジルの体力は落ちる。こんな小さな子供に、どれだけのスタミナがあるか見当もつかず、助かる見込みも立たない。
ジョウは思案した。どうすればジルは食べるのか。
「あ」
ひとつ浮かんだ。鳥などの動物が、親から子へ餌を与える習性のひとつ。人間に適しているか分からないが、何もしないよりましだと考えた。ジョウは手にある木の実を口に入れ、噛み砕く。ジルを引き寄せると口移しで与えてみた。
「……んく」
食べた。
ジルの喉をとろりと木の実が伝うのが分かった。
ジョウの全身に、嬉しさがこみ上げた。
「まんま」
ジルはさらにせがんだ。
これでいい。そう確信できた。
「よし、待ってろよ」
ジョウはありったけの木の実を摘むと、あぐらをかき、ジルを膝に座らせた。少しずつ、噛み砕いては与え、噛み砕いては与え。単調な作業を繰り返した。
ジルの機嫌がよくなった。
声を上げて笑うようになる。
「ゲンキンな奴め……」
ジョウは悪態をつきながらも、ジルの世話が楽しくなってきた。愛おしいという思いが、雨のように干上がった大地に降り注。ジョウの胸を急激に満たしていくのを感じた。