【9】
「ジル!」
切迫したアルフィンの声。白い肌が蒼白になった。2才になる子供は好奇心の塊だ。ライナスにも恐怖が去来する。3才の娘が遊覧船から落ちたのも、好奇心を野放しにしたせいだ。
「さ、探そう!」
がくがくとした口調で、ライナスは号令をかけた。だが湖畔の周りは、短い草が生い茂るだけで視界は拓けている。一望しても、湖に異変はない。
「……森だ」
タロスとアルフィンの背景に広がる雑木林。そこにジョウは目をつけた。
すると。
ぎい、という音が微かに耳朶を打った。
木の幹が擦れ合うような音。林の奥から聞こえてくる。
「ま……まさか」
ライナスがへたりと座り込んだ。その音に聞き覚えがあるらしい。
「こ、こんな所まで下りているのか……」
「あれは何だ!」
ジョウの声が跳ねた。
「……エウーダだ」
平均身長3メートルにも及ぶ巨獣だ。2つの尖った頭から、がっしりとした下肢にかけて、裾広がりの体躯をしている。全身を長い灰色の毛が多い、二足歩行をする。本来は山奥に生息する動物で、気性は穏やかだ。しかし繁殖期や飢餓が伴うと豹変する。
雑食で、昆虫や果実を好んで食べる。しかし今年は、ピグミー大学でも話題になっているが、産物の収穫が落ちた。野鳥や猿が下山しているという報告もあった。しかしエウーダは人間を恐れる動物でもある。人里に下りてくることは、学識上ではありえない。
だが目の前で、あり得ない筈の現実が起こった。
「エウーダはあまり鳴かない……。な、鳴くのは気が立っている証拠だ」
「も、もしかして」
リッキーがへたり込んだライナスを抱え上げた。
「ジルを獲物と間違えた可能性がある……」
「冗談じゃねえや!」
タロスは左腕の機銃を使う素振りを見せ、森へ突き進もうとした。
「待て!」
ジョウが制止する。
「もしそうなら下手に撃つとジルに当たる。ライフルじゃなけりゃ駄目だ」
「しかし……」
「騒いでより興奮させてもまずい」
「くっ!」
タロスは大地を蹴った。地表がえぐられる。
「俺が行く。こいつで何とか仕留めるさ」
ジーンズのポケットから電磁メスを出した。民間人として滞在する間は、原則武器を所持できない。電磁メスはぎりぎり護身用にと認められていた。
「エウーダがどう出てくるか分からん。リッキーとミミーは、武器になるものを調達してこい。タロス達は撤収作業をしながら待機だ」
「待ってくれ!」
ライナスの声だ。
「凶暴化したエウーダに、ナイフ1本で挑むのは無理だ!それに鳴き声は遠ざかっている。山奥なんかに引き込まれたら、エウーダの思う壺だ。忘れるな!奴は雑食だ!」
ジョウはにやりと笑う。
「待つのは俺の性分に合わない。可能性はゼロじゃないんだ。まあ、見ててくれ」
そしてジョウは雑木林へと突進する。
「ジョウ!」
アルフィンの声だ。
「お願い!ジルを!」
ジョウは振り向きざまに、親指を立てた。
緑深い雑木林に、ジョウの背中は消えていった。